公務員時代の思い出シリーズ➂

公務員時代の思い出

吉田文化会館館長シリーズ①

何と!令和3年4月1日から令和5年3月31日までの2年間、吉田文化会館の館長を務めさせていただきました。島以外で地域と向き合って仕事をさせていただいた本当に有意義で楽しかった2年間でした。
コロナ禍でもあり、地域ではほとんど行事が中止になり、地域の絆が途絶えるのではないかというくらい何も動きのない時期でした。

吉田文化会館を笠岡市北部の拠点に!

そこで何が出来るか?赴任以来、地域の歴史を調べたり、地域を歩いて地域を知ることに約2か月費やしました。当初の私の中での文化会館は、笠岡の北部のセンター的な役割を持つことが必要。本庁に行かなくても、福祉担当の職員、農政担当の職員を配置して窓口業務のみではなく総合的な地域の将来を考える活動拠点的な構想をいだいていました。

窓口業務だけでなく農業と福祉の担当職員の配置を

その考えのきっかけは、実は農政水産課時代に吉田地区で耕作されていた方が、「高齢で耕作を辞めたい誰か耕作してくれる人を探してくれないか」との相談で吉田地区の農家を回ったことがあります。まあ、急に役所の職員が農家にお願いに行っても手一杯と断られるのが関の山、案の定すべて断られました。しかし、こんな農地の管理に関する相談は後を絶たないのですが、解決策はなく増える一方でした。

また、コロナ禍で地域の民生委員さんが高齢者の見守りや福祉弁当の配食などの事業が軒並み自粛され、特に高齢者の引きこもりの状態が長く続いており、笠岡社協からも地域でのサロン等の事業は行われているものの介護保険事業の対応で手一杯の感もあり、地域の介護予防的な事業の必要性を感じていました。

ある出来事から地域の絆を取り戻すため

文化会館は部落解放運動の中での国の施策で建てられた地域の活動拠点的な役割をこれまで担ってきました。今は、ハード面より「啓発」といったソフト面が重視され、広く「人権啓発」の場としての位置づけをされていました。しかし、活動団体も強力なリーダーがいなくなり、会館利用もほとんど無いに等しい状態でした。

また、孤独死の問題です。私が在職した2年間に3件の孤独死がありました。ここで、人権啓発も必要だけど、ここの施設がどんな役割を果たすべきなのか?職員は何をしなければいけないのか?と自問自答し、この施設が地域内外の人に使ってもらえ、交流拠点となることが第1の役割ではないか。と考えるに至りました。そして、地域外の人にも文化会館があったから助かったという構図をどうつくれるか!これに尽きると感じました。

井笠鉄道廃線50年実行委員会?

何事も、館長個人がやっていても何か組織でやっている風を感じさせる。地域の人が興味・関心を寄せそうなコンテンツを考える。事業は分りやすく視覚に訴えるもの。そんな理由から生み出した秘策が「井笠鉄道廃線50年」というキーワードでした。

私が島で仕事をしていたころ「島の大運会」をやっていました。そのころ、笠岡の北部(吉田・新山・北川)から視察団が来られたことがあり、笠岡の北部の活性化のために運動会をしたいと言うものでした。その後、すぐに「北の運動会」として事業実施されています。

その頃のイメージで吉田地区だけでなく北部の拠点としての3地域が連携して出来る行事を考えることに。そして、当時の「鉄ちゃん」部下が「館長!今年井笠鉄道が廃線になって50年の節目です!」と・・。即採用!早速1人実行委員会を立ち上げました。

YYD50”温故知新”

新しいことをするときにはまず、歴史を紐解くことが必要だと思っています。「温故知新」あまりやったことのないことは躊躇しがちですから前に進みにくい。大勢の実行委員会を組織すると日程調整や評論家的な意見に惑わされやすい。

そこで、旧井笠鉄道路線でもある県道とその駅を使って、吉田では20年来「よしだ日曜朝市」を行っていることより、月1回のペースで軽トラ市を「よしだむら駅」「新山駅」「北川駅」とあたかも井笠鉄道が復活したイメージで実施

そして、YYDとは、イエローの「Y」。何かやろう!の「Y」。毎月21日というDAYの「D」
毎月21日の日を「YYD」DAYと名付けてイベントやっていこう!そして最初はコロナの緊急事態宣言が解除される令和3年6月21日をそのスタートの日に!

イエローって?何!

多くの人に何かやっているなーと振り向いてもらうためには「視覚に訴えることが必要」ということで旧井笠鉄道沿線の事業所に呼び掛けて「黄色い幸福のハンカチ」のごとく!沿線を黄色づくめで飾ろう!そしてついでに自分の事業所の前を中心にクリーンアップ大作戦を繰り広げ、草取りなどの美化ボランティアを「やろー!」という企画をぶち上げました。

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